ブログを読んでくれてありがとうございます!
オタスケマンは何者なんだという声が聞こえた気がしたので、僕の生い立ちを話させてください。
僕がどんな人なのか知ってほしいと思います。共感できるところが1つでもあったら嬉しいです。
人生迷走中ではありますが、なりたい自分に半歩ずつ近づいていると自信を持って言えます。
夢に向かって最短で行ける人、遠回りする人がいると思います。
僕は、後者ですが、やり切ってみせます。
誰かの人生のサポーターになってみせるぞ!
決意表明をさせていただいたところで、僕の軌跡を振り返ってみます。
なぜ、サポーターになりたいと決めたのか。興味があったら読んで欲しいです。
7,804文字の大作になりましたが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです!
目次
【幼少期】産まれてすぐ死にかけていた
4人家族の末っ子として産まれてました。母に当時のことを聞きました。
母 「あんた産まれてすぐ死にかけとったで。」
手術のおかげで、何とか息を吹き返したそうです。それでも、医者からは10歳くらいまでしか生きられないかもと言われていたそうです。
詳しい病名は知らないですが、生きてます(笑)。生き残ってるだけで奇跡!

産まれてから毎週病院に通う日々。15年間続きます。母には感謝しかありません。
母の心配する気持ちも知らず、僕は元気に育っていきました。幼稚園では、何かとお世話をしてくれる女の子がいたり、いつも友達に囲まれて楽しい日々でした。
当時は負けず嫌いで、あいつがやるなら僕もやる。という感じでサッカー、木登り砂場遊び。とにかく何でもやりたがる子供でした。
心配されていた身体も、何事なく順調に育っていきました。
ただ、プールで溺れてしまい、かなづちなったのもこの時代。代わりに器械体操を習いました。
最初は楽しかったけど、自由にやらせてもらえず1年で辞めました。三点倒立だけは得意で、今もできます(笑)。
幼稚園での思い出といえば、ジャンケン大会で1番になったことです。みんなからすごいと褒められて嬉しかった事をよく覚えています。
褒められることが、こんなにも嬉しいことなんだと実感した日でした。

【小学校】親の離婚と転校
すくすくと育ち小学生になり、友達も増えました。身体も元気!
しかし、ある日の夜中に、突然中耳炎を発症し、病院へ。後遺症で、今でも耳の聞こえは悪いです。日常生活には問題ありません。すぐに病院に連れて行ってくれたおかげです。
親には感謝しています。僕の耳が聞こえてるのは、親の愛情なくしてはありえなかった。もしかしたら、どうでもいい悪口や雑音を聞くためじゃなくて、心の声を聞くために親が残してくれたのかも知れません。

小学校4年生頃までは、野球と、絵を描くことにハマりました。
地元の交通安全ポスターに応募して、優秀賞をもらいました。ヘルメットを画用紙半分使って大きく描くという発想がインパクトを与えたと思います。
父も母も喜んでくれたので良き思い出です。絵心はないですが(泣)。
こんな遊びもしてました。友達と近所の大きな公園の裏山に巨大な洞窟を掘り、秘密基地を作りました。放課後に、自分の大切にした物を持ち込み、誰にも邪魔されず、自分が良いと思うものを語り合っていました。すごく楽しかった!
他人の敷地に穴をを掘るとかやっちゃダメなんだけど、自分達の居場所を作るということを経験した貴重な時間になりました。
居場所は与えられるものではなく、自ら手に入れるんだ。ということを学んだ。心地悪いなって思えば逃げて良い。心地の良い居場所は誰にでもあるはずだと、僕は思います。

そして、この頃に2つの大きな経験をします。
1つは、肺炎を発症して半年間入院をすることになりました。先生や学校の友達が僕を支えてくれました。励ましの手紙が毎日のように送られてきたり、千羽鶴を作ってくれたりして応援してくれました。
応援してくれることが、どれだけ心強いのかを学びました。応援されることを知ったことで、応援したい、応援される喜びを感じて欲しいと思うようになったのかも知れません。

無事に退院し、兄貴がサッカーを始めていて、自分も兄貴と同じようにサッカーを始めました。唯一、今でも続けている趣味です。
退院から半年後、親が離婚。母とともに暮らすことになりました。
親は、どちらについて行くかを自由に選べと言いました。小学生の僕と兄には、難しい選択でしたが、僕も兄も母について行くことに決めた。
理由は、長い時間を過ごしていたからだろう。この当時は、女性は弱いんだと思っていましたから。守るという気持ちもあったんだと思います。
転校して初日。サッカー好きの2人の同級生が話しかけてきて、意気投合。放課後に学校に集合してサッカーしたのを覚えています。
興味本位で話かけられたと思うけど、すぐ仲良くなったのは、サッカーが好き同士だから。好きが同じだとすぐ仲良くなれるんだと気付きました。
共通点があると仲良くなりやすい。共通点を探すには、相手に興味を持つこと。それが、コミュニケーションの入り口。転校することで気づいたことです。
サッカー部ではレギュラーになり、楽しい学校生活を送っていました。毎日サッカーボール蹴ってた。努力ではない、好きだから毎日続いたんだ。
だけど、勉強はそんなにできませんでした。それでも、母は勉強しろとかは一切言わなかった。
誰かに言われてやるのではなく、やりたければやれば良いという自分の意志を尊重してくれる母の育て方のおかげで、自分で決断することを自然と覚えました。自分のことは自分の責任であることを。

【中学校】いじめ、いじめられる
現在の自分に影響を与えた時期です。
入学早々に学校を休んだり、早退をするようになった。なぜかというと、担任の先生がなんか苦手で。理由は無いんだけど、なぜかなんです。今考えても理由が分かりません。
半年ほどこんな学校生活を送っていましたが、ここでも母は何も言いません。
ただ、英語の先生が好きでした。僕から見たらおばあちゃん世代の先生。授業がなぜか楽しかった。
教え方も上手で、英語は楽しいんだよということを教えてくれました。中学生活で唯一、学年でトップクラスの成績でした。
部活ではまだまだでしたが、良い仲間に出会い楽しくサッカーしてました。
文化祭では、みんなのフォローを一生懸命やって、クラスの代表として賞状をもらう大役もしました。お前が一番頑張っていたと先生からのご指名。
誰かの為に、一生懸命になれるのは僕の特技なのかなと感じました。
2学期になり、僕はバカなことをしました。同級生をいじめてしまいます。理由はなく、なんか嫌いで、叩いたり、嫌がらせをしてました。
先生に見つかり、いじめはしなくなりました。わずかな期間でしたが、いじめをしたことは、今でも悔やんでいます。
止めてくれた先生には感謝していますし、自分を見つめ直す良い機会になりました。悪いことをしたら謝る。嫌がることはしないということを心に刻まれました。

中学2年生になり、状況はガラリと変わりました。
今度は、自分がいじめられることになりました。自業自得ですね。人にしたことは自分に返ってくる。
外見が猿っぽいということで、当時流行った映画、猿の惑星に出てくるキャラクターのあだ名を付けられたりとか。確か、7人くらいだったと思います。
最初は、負けるかと反抗してました。ですが、なんだ?と自分自身に問いかけました。どうして、いじめという行為をしてしまうのか?自分の経験から、1つの答えを出しました。
彼らは、心が貧しいんだ。答えが出ました。貧しい心に反抗してどうすんだと。貧しい心には、精一杯の愛情というか、優しさで応えないといけない。

それからは、何をされても、優しさで対抗。家で何かあったの?授業で分からないところある?自分が考えられる優しさを駆使して残りの中学生活を過ごしました。
救いは、サッカー部のみんながいたこと。サッカーしてる時は何も考えることがなかったからだ。
高校受験の時期に差し掛かると、頭のいい人達はテストの点数に一喜一憂してました。その度に、大丈夫。大丈夫。僕なんてこんな点数だぜ。って励ましていた。
この頃から、すでに心のサポーターとして自然に鼓舞していたのかもです。

自分自身の進路も誰にも相談せずにすぐに決めました。地元の工業高校に行くことを決めてました。先生は、もう少し上の学校に行けるぞと言ってましたが、自分で決めた事なのでの一点張りでした。
自分で決めた事は曲げない。頑固者と言われますが、芯の通った男と言ってほしい。
そして、卒業を迎える前日。真っ暗な体育館で担任の先生から1人1人に言葉が送られました。先生は、僕にこう言いました。
『お前は、人の心の痛みを誰よりも理解してあげられる本当の優しさを持っているやつだ。』と言われた。
別に褒められたくて、優しくしたり、励ましたりして訳じゃなかった。ただ、改めてこう言われるとグッとくるものがあった。
今でも、この言葉は忘れない。この言葉が、僕の中心にあるのでどんな時でも頑張れるし、ありがとうや感謝をするということを忘れることはありません。

【高校】平凡な日常
工業高校だったので、実習がメイン。物を作ったりするのは好きなんだけど不器用だったので、居残りすることが多かったです。
社会人になり、改善をするときに、廃材などを使用することで収納箱を作成することに生かせることができました。いい勉強になりました。

部活はもちろんサッカー部。入部後、3年生がいる間に1回だけ試合に出ました。途中出場でしたけどね。
ここでも、コミュニケーション能力を活かせたと思います。怪我で交代となった時に、僕を推薦してくれた先輩方がいた。
能力も大事だが、サッカーはチームスポーツ。同じイメージを描くことで連携が生まれるのです。この時は、わずかな時間でしたが必死だったのだけは覚えています。
3年生が引退後、とあることがきっかけでレギュラーを獲得しました。
練習試合での出来事です。ちょっと不真面目な先輩がいました。練習来なかったり、遅刻をしたりする先輩でした。その日、試合の直前になってもその先輩は姿はなく、誰をスタメンにするか監督は迷ってました。
みんなは、またしても、僕を推薦してくれました。本来とは違うポジションでしたが、このチャンスを逃すものかと攻守共に頑張りました。この試合がきっかけで、この先引退するまでレギュラーとしてサッカーをすることができました。
仕事は、ほとんどがチームプレイ。信頼される、期待に応える準備する。チャンスがきたら全力でチャレンジすることが大切。絶対忘れてはいけないのは、自分を推薦してくれたり、信頼してくれた人達に感謝をすること。実力が同じなら、感謝を忘れない人が採用されるのではないかと思う。

高校を卒業し、就職するという道を選んだ。すぐに働いて稼ぐ為に工業高校に入学したので。
【社会人①】入社式で遅刻寸前
入社式当日。慣れないネクタイに苦戦し、電車に乗り遅れギリギリ入社式に間に合いました。が、印象は悪い。やってしまった。社長、役員、同期に最悪な印象を与えることになってしまった。
会場を移動する際に、役員の1人が近づいてきて、起きたことは仕方がない。と一言。確かに。やってしまったことよりこの後どうするかが大事。社会人になって最初に学んだことだった。
職場は、粉塵や油が舞っていて、いい環境とは言えない。物作りは好きだったし、黙々と作業できることは良かった。
でも、人がダメだった。なぜか?何人かいた先輩の中で、2人の先輩の中が最悪だった。話しやすかったのか、僕にそれぞれの悪口を言うようになった。それがボディーブローのように効いてきた。夜勤もしんどいので、5年目に会社辞めました。
疲れて休みは寝ることがほとんどでした。身体を壊す前に辞める選択ができたのは、小さい頃から自分で選択をしてきたからだ。
【社会人②】富士登山に挑戦
これだけは言いたい。富士山、1回登ってみて。
僕は、友人に誘われて、約80人くらい。4チームに別れて登りました。
正直しんどいです。登山初心者が多い中、経験者がリーダーとなり、みんなを牽引してくれました。高山病のような症状に苦しんだり、諦めそうな人を励ましながら登りました。登頂し、みんなで見たご来光はめちゃくちゃ感動しました。
僕は、自信ない。自分なんてと思ってる人でした。けど、登頂した時の達成感、それまでの道のりで諦めず登頂を目指し足を進めてやりきったことで、自信を持てるようになりました。日本一を制覇したんだと、辛い時はいつも思い出し、自分を奮い立たせています。

これまで4回登頂しました。新たな仲間とまた登りたいと思ってます。
【社会人③】商社に転職
次の仕事は、商社の物流部門での仕事を選びました。配送の仕事です。
2年の契約社員経験を経て、社員になりました。真面目な性格と、丁寧な作業が上司の目に留まり、要である商品セットをすることに。
お客様に届ける商品を確実にドライバーに渡すための作業。このポジションで何回かミスをしました。対策を考えてデータに残す。この繰り返しです。
自分がミスをするということは、誰かも同じミスをするということ。人の手で作業するので0%にはならないが、0%に近づけることはできます。
改善することは、上手いか下手か分かりませんが、好きな作業ではありました。ここでの経験が後に活きてきます。
パートさんにも好かれていた僕は、パートさんの困りごとや、頼みごとは積極的にやってました。パートさんこそ職場を支えていてくれていることを分かっていたので、社員だから、パートさんだからと差別せずに接していました。
パートさんが辞めたいと行った時には、周りの人は辞めないでと言ってました。でも、僕は辞めたほうがいい。答え出てますよね?って言いました。冷たいと思われるけど、嫌な職場で働く辛さを、僕は知っていましたから。
優しさとは、本人にどれだけ愛情を持って接することができているかです。

【社会人④】会社の交流会の幹事メンバーに選出
年に2回ある交流会のメンバーとなり、ここで自分の長所を知ることになりました。
年に2回の全社交流会を従業員に楽しんでもらう為の企画、運営をするんでが、月に1回のミーティングもなかなか進まないことがよくありました。
そんな時は、いつも僕がしょうもないアイデアなどを出して、そこから良いアイデアが生まれてくることがよくありました。
人の意見を引き出すこと、人の意見に耳を傾けることが、いつの間にか自然にできていることに気づきました。無意識にやっていたことに気づくには経験が必要なんだということも知ることができました。

約200人の前で総合司会、ゲームの司会、ビンゴの司会、雑用を経験しました。足はガクガク震えてましたけど、やりきったことは大きな自信になった。
交流会の締めの挨拶は、いつも役員がやってましたが、ある年の交流会前日のことです。締めの挨拶をやってくれないかとメールが来た。そんな大役を頼まれることは、人生初のことでした。悩みましたが、腹をくくりやることにしました。
全従業員に向けて書いた、文脈も無茶苦茶な手紙と、アントニオ猪木の1、2、3ダー!これだけの武器を持って締めの挨拶をしました。
自分で言うのも恥ずかしいですが、僕の知る限り、最高の盛り上がりをみせました。重役や、いろんな人から褒めてもらえました。
スベること、失敗を恐れず、自分の気持ちを伝えることに全力を注いだ結果です。失敗は怖い。でも、チャレンジしなければ、失敗も成功もなに1つ経験できないこと。これは、後の大きなチャレンジに繋がります。
【社会人⑤】初めての1人旅初海外へ

今までの人生で最大の挑戦となった。
きっかけは、ゴロウさんのブログです。彼は、夫婦で脱サラし、夢であった世界1周をした人です。
トークライブをやるということだったので、思いきって申し込みました。旅のこと、ノウハウを自らの経験を元に話してくれました。
小さい頃に、海外行きたとか漠然と思っていましたが、結局行かずに30代になってしまった。秘密基地とか作っていた昔の気持ちが呼び覚まされて、僕はタイに3泊4日の旅に出ました。
チャレンジすることの大切さを身をもって体験していたので決断は早かったです。ゴロウさんのように、誰かの背中を押してあげれるようになりたいと強く思いました。ゴロウさんには毎日感謝しています。

【社会人⑥】TCカラーセラピーと出会う

運命的に出会ったTCカラーセラピー。これも、ゴロウさんが繋いでくれたご縁です。
たまたま、ゴロウさんのSNSでカラーセラピストさんのブログコンサルをしている様子が載っていたんです。これは!と思い、ゴロウさんに連絡して繋げてもらいました。
実際に受けてみました。うんうんと納得することばかりでした。直感は間違っていなかった。その方に、講師の先生を紹介してもらい資格を取りました。
1つのチャレンジで人はこんなにも変わるんだ!自ら体験して思いました。僕のように変われない自分を変えたいと思う人をサポートしたいと決めました。

【社会人⑦】営業部へ異動
サラリーマンの宿命ともいえる異動。僕にもその時が訪れました。商社の花形でもある営業は、物流という間接部門からの出世。
でも、営業の経験もゼロ。パソコンも苦手。そんな僕でもチャレンジできたのは、これまで話してきたよううな経験をしてきたからこそだろう。
異動してから、24時間仕事のことばかり考えるようになりました。仕事ができない自分が悪いんですけどね。慣れない仕事へのストレスと頑張らないと、やらなきゃという気持ちが自分を追い込んでいました。
ある朝、いつものようにシャワーを浴びて会社に行こうと脱衣所に向かった。そこで記憶がなくなりました。母に叩かれ起こされて、自分は倒れたんだと認識しました。布団に入り、1日休んで考えました。
何がしたい、どう生きたい、今が幸せか?自問自答しました。そうじゃない、やりたいことあるんだろう!自分が踏み出せたように、誰かを踏み出させてあげたいんだと。

【現在】夢に向かって

現在は、会社を退職しました。
色のこと、TCカラーセラピーのこと心のことを勉強しながら、半歩ずつ夢に向かって行動をしてます。
もし、機会があれば、僕のカラーセラピーを受けてみてください。僕が、少しでも、あなたのチャレンジする心を支えてあげられたらと思っています。
心が折れそうな時にそっと支えられる人になることこそ僕の夢。あなたの夢が叶った時こそ僕の夢が実現した時です。

長文を最後まで読んでいただきありがとうございました!
それではまたね。今日もありがとう。
感謝を忘れずに。
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